「頭、冷やしてくる」
怒りの感情に彩られた金が、雨雲のせいで薄暗くなった室内で妙に光って見えた。
その金が、低く抑えられた声と共に部屋から消えて、もう半刻。
御剣にはただただ、曇天の下に走り去った獣の帰りを待つしか術はなかった。
切欠は本当に些細なこと。
仕事上のミスで落ち込んでいた狼に対して、御剣がかけた言葉があまりにも厳しすぎたというだけだ。
しかし普段の狼であれば『アンタのそういうとこに惚れたんだ』ぐらいのことを言っていただろうし、御剣もそのような応酬を予想した上でかけた言葉であった。勿論、常ならば慰みよりも鼓舞を好む狼の性格も踏まえたうえで選ばれた言葉でもある。
それでもミスの内容が、御剣からすれば気に病むほどのことではなく、狼にとっては口もきけなくなるほど落ち込むようなことだった。そんなよくある価値観の差異が、今回互いの予想をはるかに上回る大きな齟齬を生み出してしまったのである。
御剣も、自分が言った言葉が間違っているとは思っていない。そして狼も、そう思っている。だからこそ、御剣に不当にあたってしまう前に頭を冷やそうと飛び出していったのだ。
言い方はともかくとして、言ったことが正しい以上、御剣から追って行って折れることは、更に狼を刺激して追いこんでしまう。同じ男として狼の心情(プライド)が分かってしまうだけに、御剣はどんなに反省しても、部屋を出ていくことは出来なかった。
玄関のドアにほど近い廊下で座り込んで一刻。
いつでも狼を受け入れられるように用意したタオルは、握りしめられて御剣の嫌な手汗を吸いこんでいる。額は抱え込まれた膝に強く押し付けられ、強さを増す雨音のみが鼓膜を打っていた。
と。雨ではないものが鼓膜を震わせる。
呼び鈴を鳴らさないままに捻られたドアノブの金属音が聞こえた瞬間、狼を包むはずのタオルは掌を滑り落ち、気付いた時には濡れそぼった身体を強く抱きしめていた。
「濡れちまう‥」
「煩い」
一体どれだけの間雨に打たれていたというのか。夏の雨とは言え、水は水。狼の熱を奪っていくのは容易いことであったろう。普段はあたたかく感じる抱きなれた肉体が冷たいというのは、不必要なものを御剣に感じさせ、そして思い出させる。
「…ちゃんと、生きてるぜ」
部屋にずっといた筈の御剣の震えを感じ取った狼は、痛いほどの力を加えて抱きしめた後、悲痛な顔を上げさせて口付けた。
冷え切った身体で唯一、すぐに御剣に熱を伝えられる行為。一瞬触れた唇の冷たさなど忘れさせるように、早急に舌を絡ませる。青ざめた白い頬を滑り落ちたのは、狼の髪から滴ったものだけではない筈であったが、気付かないふりをしてひとまとめに指でぬぐいさった。
「アンタのおかけで、またひとつ成長できた。有難うな」
狼はそう言ってからまたすぐに、何か返そうと開いた御剣の唇を塞いだ。
最初のキスで必死に縋りついてきた御剣の指から、『すまない』も『いなくならないでほしい』も『こわい』も全部伝わってきた。だから素直に感謝を言えたし、それ以上謝罪の言葉などは口にするつもりはなかった。御剣の想いも、狼の謝罪も、音にすれば御剣を傷つけそうで怖かったのだ。
「なぁ、風呂とアンタと、どっちがあっためてくれる?」
充分とは言えないものの、少しは熱を取り戻した狼が口付けの余韻にぼやける御剣の瞳を覗きこむ。
この部屋を去った一刻前に御剣を射ぬいた金の光は、いつもの琥珀に戻り、今度は御剣の中に溶け込もうとしていた。それは、風呂でもなく情事でもなく身体を暖める術に似ていて、御剣はしばしその色に酔い、閉じきれなかった唇からは胡乱なつぶやきがこぼれた。
「…馬鹿者。貴方など、紅茶にアルコールを少し、で充分であろう?」
本当に酔い痴れたような蕩けた顔のくせに、生意気な口はそんなことばかりを言う。
「紅茶(アンタ)にアルコール?そりゃあ、充分どころか、サイコーだな」
それでも、恐怖が抜けた様子の御剣に安堵した狼は、犬歯を見せて笑いかけ、揚々と極上のブランデーティーを味わいにかかったのであった。
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ずっと水につかってると本当に死んだみたいになります。
師父は筋肉がびっしりなので、普段体温は高くて、それがみったんには癒しになってると思います。
ということは、自分より体温が低い師父とか、不安要素なんだろうな…と。
まぁ最終的には、頭を冷やした結果下半身が‥(自粛)。