鼻先をすりつけてくる仕草も、安心したように唇から零れる吐息も、それはそれは愛おしい。
たとえベッドの中で眠る前に何があってもなくても、そんな風に恋人に身を寄せられて、満たされない男はいないとさえ思う。それが、普段なかなか素直にならない相手であればなおさらだ。
しかし狼には、ひとつだけ不満があった。
「なぁ、ひとつ聞いていいか?」
「…なんだ?」
狼のぬくもりに埋められた声は、物理的にだけでなく眠気も伴って明瞭さを欠いている。それが相手の印象とは大きく違って幼く、こんなコイツを見られるのは俺だけなんだろうなどと優越感に浸らないでもないが、問題はその声がどこから聞こえてくるかということである。
「なんでアンタは背中で落ち着くんだよ…」
そう。くぐもった眠そうな声も、触れてくる鼻や頬の感触も、すべては背中ごしに伝わってくる。つまり、御剣は狼の背中に身を寄せているのであり、肝心の狼の腕の中はからっぽだ。行くあてを失くした強靭な両腕を持て余しながら、狼は困ったように溜息を吐いた。
「居心地がいいのだよ。貴方の腕も痺れないのだから良いではないか…」
これが、何度言っても譲らない御剣の言い分だ。どうやら狼の肩甲骨や鍛え上げられた背筋が作り出す窪みがお気に入りらしい。
狼とて、商売道具と言っても過言ではない身体のどの部分も痺れずに目覚められるのは有難いと言えば有難いし、今までも腕枕や、相手を抱き込んで寝ることはできるだけ避けてきていた。だがしかし、一度もしたことがないのは例がなく、まして視界の外である背面にはりつかれた経験などはこれが初めてである。
「一回くらいアンタの寝顔を拝みてぇんだが?」
「却下だ。」
「じゃあアンタは?俺の寝顔、見たいとか思わねぇの?」
「貴方はどこでもよく寝るからな‥」
くすくすと笑う振動が伝わってきて、狼はむすっと黙り込んだ。確かに御剣の執務室といい、自宅といい、御剣の仮眠用でもあるのか寝やすいソファが横たわっていて、あまりに激務が続いた後の逢瀬などでは、御剣が仕事をしていたりトノサマンに夢中になっている間はそこで寝ることもしばしばだ。
やはり弁士に口で勝とうとするには無茶があるらしい。あえて『見たいとは思わない』という否定では返さないあたりがなんとも憎らしい。
「アンタばっかりずるい」
最終的には子供の様に拗ねるしか術はなく、今回も御剣の"背面派"は治ることがなさそうだ。
せめてもの仕返しとばかりにでっかい溜息をついて、持て余した腕にクッションを抱きしめれば、腕の動きが肩甲骨の動きで解るのか、背中の楽しそうな笑いが困ったような笑いに変わった。
「丁度いいのだ。貴方の背中にしか伝えられないことが、私には沢山あるのだから」
「…!!」
そうか、と思いあたる。素直じゃない筈の御剣がすり寄ったり出来るのは、狼の視界の外であるからこそなのだ。きっと、正面から抱き合っていたらそれだけで緊張してしまって眠れすらしないのかもしれない。
どう想像しても、正面から抱きしめれば腕を突っ張って出来るだけ距離を取ろうとする御剣が真っ先に思い浮かんでくるくらいに、それは自然なことだ。
「……それに…。貴方に一生見られないものを見続けるのも悪くはない」
急に恥ずかしくなったのか付け足された理由も、狼にとっては御剣の優越感を垣間見たようで、告白をされているようなものだ。それに、一度背を預けると決めた相手だ。こんな風に背を預けるのも悪くはない気がしてきた。
「つまり、アンタはいつでも俺のことを刺せるわけだ」
笑いながら言った言葉は、言外に『アンタにならいい』とも御剣に伝わっているはずだ。
「だれがそんな犯人が特定される方法で殺すものか。落書きですらばれるではないか」
まったく、さっきまで背中にあたっている頬が必要以上に温かかったのは気のせいじゃないはずなのに、どうして口では勝てないのだろうか。『あなたの背中は私だけのもの』と返されれば、今度赤面するのはこちらの番だ。
「なぁ、賭けをしようぜ?」
「何?」
「あんたが俺の腕の中で寝るのと、一回でも俺がアンタに口で勝つのとどっちが早いか」
背中を預ける気分が悪くないとはいえ、やっぱりこの両腕にも幸せな重みというのを味あわせてやりたい。しかしこのままでは、照れがなくなる頃には背中が習慣化して抱かせてもらえそうにない。だから、意外と賭け好きな御剣に賭けを申し込んでみた。
「どちらにせよ貴方が得をするのだから、私が勝った時の報酬はそれなりだろうな?」
「ハハ、確かにな。なら、俺は勝ったことが報酬。アンタが勝ったら…アンタの好きなものを」
こう言って賭けに乗らないのは、もともと賭けをする気がない相手だけだ。例外なく御剣も首を縦に振った。
何を要求してくるつもりかは知らないが、御剣のことだ。高価なものや、苦痛を与えることだけはしないはず。そう踏んでのこの提示だ。
「私の本気を思い知るがいい」
その日寝る間際に言われた言葉通り、逢瀬の度、夜は背中に居た筈の御剣が朝起きると正面に転がっているという現象が起き始めた。このまま狼との距離を縮めていき、最後には寝る前から正面に居られるようにしようという練習方法なのだろうが、これがまたえらく時間のかかる『だるまさんがころんだ』的で狼にとっては面白い。
朝起きるのが楽しみだなんて、寝起きの良い狼ですら数年ぶりだ。
しかし、よもやこの幸せで楽しい日々の終わりに、腕の中の御剣に口で大負けした上に『報酬』でえらい目に遭おうとは、この時の狼にはまだ予想が出来ないのであった。
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ということで、みったんはバック派だったというお話(語弊)
師父の背中と壁に挟まれて寝たらものすごい安心感が得られそうです。
個人的には、ただ拗ねてクッション抱っこする師父が書きたかっただけっていう(笑)
勿論報酬の内容はご想像にお任せ致しますv
読んでくださって有難う御座います!